

取材中に出会った人々や事柄、疑問に思ったこと。そして食べ物。興味本位に綴るペー
ジとしてスタートした。
今回は少しいつもと違う内容ですが、私の亡き親父のこと。
親父のことをあまり話す機会がない。
亡くなって29年になる。今年、我が家の女猫のミーシャを送ったこともあって妙に親父の
ことを思い出してならない。
私は親父が40の時の子供。世間で言えば恥かきっ子と呼ばれるらしいが、私の下に弟と
妹がいるのを考えると、40過ぎの子供も決して恥ずかしいものでもなかったのだろう。
何せ、32か33才の時に出征し、満州で捕虜生活を送った後に日本に帰ってきた訳だから
遅い子がいてもなんの不思議もない。
親父の仕事は時計の修理だった。私もいち時、親父の仕事を手伝っていたが、ちょっと特
殊な仕事の形態にメゲてしまい、今の仕事へと転職してしまった。そんな私が言うのもな
んだが、今のこの時代に親父が現役で仕事をしていたら、きっと「蔵」が建っていただろ
うと思う。それは至極当然なことで、古いアナログの時計を修理する技術者がいなくなっ
たと言うことだが、その時代から親父は手仕事で、本来なら精密旋盤で削り出す時計の部
品を作っていた。親父の仕事はかなり高く評価されていて、アメリカからわざわざ修理の
時計が持ち込まれる程だった。たとえばロレックスの純正オープナーなど、特約店でない
と持っていないものも個人で所有していたし、わざわざ近県の修理屋が親父を訪ねてくる
こともあった。親父は船舶関係の仕事をしていて、その技術は高く評価されていたらしく
終戦後、かのGHQのPASSでアメリカの船舶に乗船して仕事をすることを許されていた。
その為日本の税関からは辛く当たられていたようだ。その当時、中々手に入らない抗生物
質などを何とか入手してほしいと知人から頼まれる事もあったらしい。と言う私も、幼い
頃に死にかけたのを、アメリカ船の船医に分けてもらったペニシリンで命拾いをした。
もちろん、そんなことは非常時のことで、親父は至って真っ当な時計修理屋だった。
すこし真っ当でなかったのはなぜか猿が好きで、名古屋に住んでいた頃、我が家にはマ
ントヒヒをはじめとして、かにくい猿、ニホン猿、と4匹もいた。それにカメレオン。
それは神戸に移り住んでも変わらず、さすがにマントヒヒは名古屋の東山動物園に寄付し
てきたが、神戸にはカニ食い猿と日本猿を連れてきていた。親父は動物好きなくせに猿の
世話はお袋まかせで、全勢力を仕事に打ち込んでいた。しかも女好きでもあった。
その話は置いといて。
私は親父の仕事を見ていて、仕事ではこの人にはかなわないと感じていた。ストイック
ながら楽しそうに仕事をする親父の姿に嫌悪感さえ感じていた。あまりにも違いすぎた。
だからかも知れないが、親父の話に耳を貸すこともなかった。7年間仕事を手伝い、今の
仕事に転職することとなった。今になって。この歳になって、思うことがやまほどある。
私など足下にも及ばない程、親父はすごかった。
たしかに女遊びをしてお袋を悲しませたこともあったが、お袋が店を三軒つぶしても何も
言わなかったし、多少のことには動じなかった。それよりも何よりも仕事が大好きだった
親父を少しは見習わなくてはいけない。気がつくのがあまりに遅いけど。